輝Rockコラム #57 “才能”は言い訳のための材料ではない

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こんばんは、DEAD OR ALIVE(以下DOA)プレイヤーの輝Rockです。

突然ですが、私は「才能」という言葉が嫌いです。
そんなものを理由に、できるできない、得手不得手を語るべきではないと思うからです。

例えば「努力の才能」という言葉があります。
飽きっぽい人はおおよそのことに対して飽きやすいし、しつこい人はいつまでも同じことを練習し続けていることを指してのことでしょう。

しかし果たして「続けること」これは本当に才能なのでしょうか?
少し自分なりの考えを書いてみたいと思います。

スポーツにみる才能論

以前、私が自衛官だったころ、ある体育教官の方と話したことがあります。その方は体育教官というくらいですから、自衛隊で行われるほとんどのスポーツ科目をそつなくこなすし身体は筋肉隆々です。
その人が言っていた言葉で印象的なのが「(運動の)才能なんてのは平凡なレベルでは関係ない。ちゃんとした努力と練習さえすれば、殆どの人がある程度のレベルまでは上がることができる。」というもの。
その人は20代前半までは虚弱体質で筋力も低かったそうです。しかしふとしたキッカケからスポーツを始め、そこから知識と身体を磨いて教官にまでなった人です。

また、私の後輩の一人に高校球児が居ました。彼は甲子園に出るほど野球に打ち込んでいて、高校生活の全てを野球に捧げるほど熱心に野球をプレイしていたそうです。
彼曰く「野球でプロになる人、プロを目指す人は身体がとんでもなく頑丈。高い技術がある選手でも、どこかしら身体を故障してプロを目指せない人が沢山いる。自分も身体がガタガタになってプロの道は考えなくなった。そういう部分を最終的に乗り越えられるのが才能だと思う。」といったことを言っていました。

どちらも自分にとっては貴重な意見でした。
これらを踏まえると、つまり“才能”というものの本当の意味は「極限まで努力した末に現れる最後のひと押し」じゃないかと私は思います。

平凡の先に

巷では順応性の高さや成果が出るまでの早さを指して「才能がある」なんていうことがよくあります。しかしそれは誤りで、あまり重要ではない事柄だと私は思っています。
「努力の才能」や「何かを長く続けられるのも才能のうち」といいますが、これもそうは思いません。なにも考えないでただ何かを続けるだけなら猿でもできるからです。

人並みであること、平凡なことに劣等感を抱く人もいるかもしれませんが、平凡であることは何も悪いことではありません。むしろ伸び代があると捉えるのが健全な考え方だと思います。

物事において先天的な有利不利、得手不得手はあるのでしょう。
ただし、本当にそれらが結果に影響するのは、究極的なところまで上り詰めてから現れるものではないでしょうか。

大切なのは、才能の有無を語るよりも、何かにおいて才能を語れるほどの努力をしたのかどうか。
それが一番重要ではないかと私は考えます。

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